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掲載月:2019年3月
History of EINS WAVE vol.1 富山計算センターから「コンピュータ・ユーティリティ」を目指す
いまや「ネットワークのインテック」と呼ばれるインテックだが、その設立は1964年。
コンピュータはごく一部の大手企業のものであり、データ通信もなかった。
そんな時代にいち早く「共同計算センター」を開設し、中堅企業や自治体にコンピュータの恩恵をもたらすべく奮闘。当時の様子について、話を伺った。
インテックの長い歴史の中で、まずは「富山計算センター」を設立した経緯をお聞かせください。
今から55年も前になりますね。日本では、大企業が計算センターを構え始めた頃です。当時のコンピュータにはディスク装置やテープ装置すらなく、カードをメディアとした「パンチカードシステム」という、今からすれば非常に単純な仕組みのものでした。
丸の内事業所 パンチ室(1968年/富山県)
しかし、当時は中堅企業や地方自治体が自前でコンピュータを運用するのは金銭的・技術的にもまだまだ難しい時代。そこで我々が「共同計算センター」を設立したのです。原票をお預かりして計算事務を代行し、必要な帳票を納品するという情報処理サービスを富山県で起こしました。
設立日を1964年の1月11日に選んだのは、この日が漁師の仕事始めにあたる「起舟の日」だからです。当時、我々が切り開こうとした情報処理サービスは未知の産業でした。しかし、その前途は太平洋のように無限の広がりをもっていたとも言えます。大海原で幾多の困難・風濤(ふうとう)と闘わなければならないことを予期しながらも、出航するという決意を示した設立日でした。
その後「インテック」へ社名変更されていますね。
設立後、事業の拡大に伴い富山から全国に拠点を広げたのですが、新潟に始まり、東京、名古屋、高岡、仙台にも事業所を開設し、1970年10月に社名を「インテック」に変更しました。「インテック」とは、情報技術、システム技術、国際情報通信等のサービスを行う知的集団、ということを意味する造語です。この言葉には、富山というローカルな土地からナショナル、ナショナルからインターナショナルへ飛躍しようという思いが込められています。
私が入社したのは、設立から11年目の1975年でした。第一次オイルショックの真っただ中で就職難だったことからIT系を狙いましたが、インテックのような独立系の計算センターは珍しかったと記憶しています。ほとんどが親会社の仕事を主に請け負っていました。だからこそ私は、独立系のインテックに入社を決めました。やっぱり嫌じゃないですか、親会社からいろいろ言われたりするのは(笑)。
「通信のインテック」としての始まりは何だったのでしょうか。
丸の内事業所マシン室(1968年/富山県)
国内で通信が民営化されたのは、インテックの設立から約20年後です。設立当時、当社に「ネットワーキング」という考え方はありませんでした。「コンピュータ・ユーティリティ」について知ったのは、設立して間もなく、大型電子計算機「ENIAC」の共同発明者であるJ.P エッカート氏の講演会でした。
電話回線を通じて大型電子計算機をシェアすれば、コストを押さえつつ情報処理の恩恵を多くの人が受けられる。電気やガス、水道のように「いつでも、どこでも、誰もが」利用できる――その概念に、当社創業メンバーであり、後に社長となる金岡幸二が感銘を受け、会社の針路として「コンピュータ・ユーティリティ」が定められました。
私も入社時にその考えを教わっています。「電気は誰がつくっているか分からないけれど、機器をコンセントに差せば使えるだろう。そんなユーティリティの考え方をコンピュータに適用することが我々のミッションだ」と言われ、ひたすらコンピュータ・ユーティリティを追求しました。そして、コンピュータ・ユーティリティを実現していくには、通信が必要不可欠だったのです。
コンピュータ・ユーティリティを追求してきた中で、どのような事業がありましたか?
音声合成に挑戦したことがありました。まだカーナビも普及していない時代に、音響メーカーや海外の企業と一緒に音声応答ナビをつくろうとしたんです。私は音声係として、首都高を走らせる車の中で「左へ曲がります」など発声して、その声をサンプリングしていました。音声インターフェースはユーティリティ性が高く、もし実現していれば利便性を多くの人が享受できる世界です。当然インテックとしては、チャレンジしていい分野でした。
PCエンジンなどのゲームもやりましたよ。「太平記」や「ザ・プロ野球」などのソフトを開発したんですよ。
我々のお客さまのほとんどが企業ですが、コンピュータ・ユーティリティを提供する先は、特に企業に限定していません。今でこそコンシューマも当たり前のようにコンピュータ・ユーティリティを享受していますが、当時はゲームくらいしかありませんでした。「提供できるならゲームもやってみよう!」というノリでしたが、どれもタイミングが早すぎましたね(一同笑)。
チャレンジしていくのがインテックのスピリットですね。
そうですね、「金なし」「人なし」「技術なし」でしたから(笑)。通信が国有事業だった時代に、我々が通信事業に参入できるとは、誰も思わなかったでしょう。しかし難しいとしても、コンピュータ・ユーティリティの実現を目指して一人ひとりがチャレンジし続けることは、創業以来変わらないものです。
次回は、通信自由化の歴史とともに歩みを進めてきた、インテックのネットワーク事業についてお話ししたいと思います。
- NAME
- 鈴木 良之(Yoshiyuki Suzuki)
- CAREER
- 昭和50年4月 株式会社インテック入社。
ネットワーク&アウトソーシング事業本部長、代表取締役副社長執行役員などを経て現在は当社常任顧問として後進の育成に尽力している。
掲載内容は、2019年3月現在のものです。